草壁皇子の舎人
草壁皇子は嶋の宮と言われていた。
この嶋の宮は蘇我馬子の邸宅だったと言われている。
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万葉集に、皇子が身罷られた時に詠まれた歌がある。
高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者 不荒有益乎
たかひかる わがひのみこの いましせば
しまのみかどは あれずあらましを
意味は、「高く光る我が日の皇子がいらっしゃたなら、
嶋の宮はこれほど荒れなかったでしょうに。」
皇子はこの嶋の宮で不比等に多くの事を教わり、話相手
になってもらったのだ。不比等は常に皇子の傍にいて
精神的な支えになっていった。
無位の不比等が持統の一粒種の大事な息子に近づけたのは、
持統が不比等を天智の後胤であると信じたからだろう。
それでなくて、不比等がいかに有能であろうと、天皇家の
外戚になるまで出世出来るわけがない。
不比等が鎌足の子なのか天智の子なのか、解らない。
もしかすると、不比等を天智後胤と思わせるべく、鎌足が
仕掛けたのかも知れない。不比等一人がどうあがいても
持統が不比等を鎌足の実子と信じていたら、その後の
不比等はないと思う。
後の大鏡などには、不比等が天智の子であると書かれて
いるが、平安後期には不比等の生きた時代は大昔であり
今と同じで、不比等に関する記録と言えば、尊卑分脈か
藤氏家伝、興福寺縁起と不比等伝だろう。
しかし当時なら、まだ民間伝承には語り部が残しただろう
表に出せない隠された真実を見つける事が今よりも容易
かっただろう。
不比等の出生に関する記録は、尊卑分脈では「母は車持君
与志古娘(よしこのいらつめ)」とあり、興福寺縁起では
「母は鏡王女」とあるようだ。しかもご丁寧に分脈の不比等伝
には「公(おほやけ)避くる所の事有り」と、いかにも天智天皇
後胤説を匂わせるような記述がある。
事実はどうあれ、持統がその噂をおそらくは信じたことに
不比等の幸運があったのではないか。
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