定慧の役割
定慧が生きていたと仮定しよう。
彼は11歳から23歳まで留学僧として唐で生活を
していたわけだから、当然中国語は堪能だった。
大陸に帰属したくないが、しかし学ぶべきは学ぶ。
都造りも、唐の長安をモデルにしたというのは有名な
話だが、実際に見てきたものが居てこそ再現出来ると
いうものである。
勿論、唐から帰ってきた者、来たもの、唐を経由して
日本に入ってきた異国の人々がいただろう。
しかし、都造りに携わる第一線の人材は、悪戯に見聞
きしたものを再現するだけでなく、そこに新都を建設
する目的意識を一にする者達でなくてはならない。
平城京は本当に風水に沿って造られた都かどうかは
疑問であるが(というよりも、無理矢理造られた感が
なきにしも非ず)、蘇我色を一掃して、生まれ変わった
日本国を目指していたのは間違いない。
そこで都市に欠かせないインフラストラクチャーや
利便性など、あらゆる方向から検討しなければならない。
もし、定慧が生きていたならば、ブレインとしてこれ以上
の人材は無かったのではないだろうか。
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