鎌足の「鎌」とは?




鎌足は中臣に養子として入ったのだが、前身は
なんだったのだろう。

群馬から鹿島にかけての地域のどこかが本拠地
だろうと思われる。
不比等の母の実家である車持氏の本拠地である、
群馬の吉井町辺りなのだろうか。

あの辺りの地名に鍛冶町というのがある。
東京は神田付近にも鍛冶町はある。
多分全国にあるのだろうが、地名はその辺りに
住む集団の職業を表すこともある。

中臣氏は元々製鉄技術に長けた豪族であったし、
妻の車持氏も精錬製鉄の技術者集団だった。

ここで、面白いサイトを見つけたので紹介する。
癌の闘病記録をブログで公開していた方で、
趣味で群馬の古墳研究をしておられるようだ。

http://members3.jcom.home.ne.jp/yoshi-cp/gfshirsishi.htm#nanakoshiyama

以下はそのサイトからの抜粋である。

「騎馬民族(上毛野=三家一族)が鮎川の支流で
砂鉄を採り、精錬製鉄した(下日野鈬沢たたらさわ)。
欽明天皇の時代に鉄の産地を豪族から取り上げ直轄地
とした。

接収に反抗した豪族の話が、羊太夫の伝説。

「羊太夫の女房7人が自害して輿に乗せ葬ったので七輿山」
はいかにも作り話。この古墳の一族、車持氏が激しく戦った
事がナナコシの名前に関係あるのかもしれない。

在地の豪族の反抗を記紀では羊太夫の話にすり替えた。
その証拠に、再び反乱が起こらないように大和王権の監視役
緑埜屯倉の長官又は評司(こおりのつかさ)の墓がすぐ北側
にある。
明らかに墓制の異なる上円下方墳の伊勢塚古墳がそれである。

(七輿山古墳)532年欽明天皇のクーデター政権交代により、
欽明天皇支配が進む。従属に反対、帰順しなかった、七輿の
豪族、車持氏は皇子塚古墳の主に滅ばされる。領地は緑野と
して朝廷直轄地緑埜屯倉となる。

白石の豪族、三家(みつけ)記紀の毛野 車持氏の一族は
その後倭王朝に協調し近江王朝(天智天皇)のころ車持君
国子の娘 与志古娘(よしこのいらつめ)は藤原の不比等を
産む。

不比等が、日本紀を編纂した時、羊太夫伝説を創作し
母方の先祖の失権回復させた。

尊卑分脉 不比等の伝記に「出生を公に避くる所あり」と
書かれているため、天智天皇落胤説があるが、母方の先祖、
車持氏が欽明天皇に帰順しなかったことを、詮索してはなら
ないと言う意味だったのでは無かろうか?」

個人の研究者とは思えない詳しさである。

(C) 2009 藤原不比等の歴史|藤原不比等の人物像