定慧と不比等は実の兄弟か
不比等の存在は、兄・定慧と違って、かなり成長
するまで、帝をはじめ、大和政権の役人達も知ら
なかったのではないかと考えている。
鎌足にとって車持氏は頭痛の種だったはずだ。
妻の実家が大和政権の抵抗勢力というのは、政治家
としては致命的だからだ。
兄の定慧が11歳で留学僧として唐入りしたのも、
孝徳天皇の落胤だからではなく、車持氏の血筋で
あったせいかも知れない。
家伝や尊卑分脈にある通り、定慧も不比等も、母は
車持国子の娘・与志古娘というのは本当のことで
ある可能性もある。
22歳で唐から帰国したというのはどうだろうか。
奈良県多武峰にある談山神社縁起によると、祀られて
いるのは鎌足で、境内にある木造の十三重塔は、定慧と
不比等が父・鎌足の追福のために678年に建てたとある。
鎌足よりも先に死んだはずの定慧が、死んだ父の菩提を
弔う...という事を指摘したのは、梅原猛氏が最初なの
ではないだろうか。
定慧として暗殺されたのは、定慧の身代わりで、本物は
唐に留まり帰国の時を待っていたのではないか。
壮年の定慧上人の絵もあるくらいだ。
鎌足は息子・定慧を唐に隠し、一方次男史については
謀反を企てた母の実家に置いておくわけにもゆかず、
文書記録を専門職とする山科にある田辺史(ふひと)大隅
の邸に隠したのだ。
教育を受けるためにもうってつけなのだが、この
田辺氏は以前にも触れたが、鎌足の妻、与志古娘の
実家である車持氏とは同族で、元は毛野氏である。
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