多胡碑(たこひ)
あまり馴染みがない名前だが、これは群馬県多野郡吉井町
池字御門にある古碑で、特別史跡である。
この碑が何であるか、というと、711年3月9日に多胡郡が
設置されたことが記されているという。
内容ははっきりしていない部分が多いようで、特に碑文中の
「給羊」が何を指すのかが解っていない。
「郡成給羊多胡郡」の意味の解釈が定まらないのだそうだ。
郡と成して羊に給ひて多胡郡と成す...とはどういう意味か?
羊は朝鮮の鮮の字の簡略化したものだとする説もある。
この周辺の遺跡からは、羊の文字のある瓦が出土している事と、
高麗神社が有ることから、朝鮮半島からやってきた渡来人の碑
とする説があるようだ。
そもそも「胡」は外国人を指すのだが、多胡は渡来人集団を
意味すると見る向きもある。
しかし、この吉井町には「羊太夫(ひつじたゆう)」という
人物の伝説があるのだ。
その内容は吉井町のHPから一部抜粋して紹介しよう。
羊の日・羊の刻に生まれた羊太夫は、立派な体躯と明晰な頭脳
の持ち主で、711年の多胡郡の郡司となった。
中央集権国家の当時の日本で、郡司はたびたび朝廷に出仕する
義務があったのだが、群馬から奈良への遠距離を俊足の馬に乗り
1日で行くことが出来たというのだ。
そして常に小脛(こはぎ)なる家臣が伴をしていたのだが、
この小脛の脇に鳶の羽が生えていて、それが故に小脛も馬も速く
走る事が出来たというのだ。しかし羊太夫が好奇心からこの羽を
眠っている小脛の脇から抜いてしまう。果たして、最速で平城へ
赴くことが出来なくなり、朝廷からは謀反の疑いをかけられ、
一族は全員討ち死してしまう。最期に残った羊と小脛は、鳶に
変身して飛んでいった...という、意味が良く解らない伝説だ。
この羊太夫が不比等ではないかという説があるのだ。
(C) 2009 藤原不比等の歴史|藤原不比等の人物像