出世街道を歩み始める不比等




皇太子だった草壁が死んだため、皇太子の位を父から
息子の軽皇子(かるのみこ 後の文武天皇)にスムーズ
に移行するためには、直系による皇位の継承を優先と
することを根付かせなければならない。
そのためには、草壁の息子、軽皇子がまだ幼少である
ため、草壁の母である天武の皇后が即位する必要が
あった。持統天皇である。

それまでの中継ぎの天皇ではなく、政の執権を握る
唯一の女帝である。天武天皇の長男である高市皇子が
太政大臣となり、女帝の補佐をすることになる。

天武帝亡き後、4年の間空位だった天皇の玉座が
埋まった時、裏で不比等がどう関わっていたのか、
正史は何も語ってはいない。

軽皇子の教育係として天皇家に密接に関わり、女帝の
後見で徐々にその力を発揮し始める。

持統天皇即位の4年後、都を藤原宮に遷都する。
その頃、不比等と蘇我娼子との間、三男宇合が生まれる。

その2年後高市皇子が急逝するのだが、彼の死にも
いろいろ疑問を抱き推測する向きがあるようだ。
なんでもかんでも不比等が関わってると考えるのも
行き過ぎかも知れないが、彼にとって天武の長男は
目の上のたんこぶだったはずだ。持統の庇護と、軽皇子
の後見としての立場があればこその出世であるが、
軽皇子にもしもの事があった場合、高市皇子が皇太子
になり、持統亡き後即位する可能性が充分にあるからだ。

697年、文武天皇即位。不比等39歳、高市皇子が死んだ
翌年のことである。
持統は皇位を軽皇子に譲り、自らは太政大臣となって、
政に関わっていく。

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