国家樹立




草壁皇子が没後預かっていた黒作懸佩刀を
新天皇に献呈する。不比等が親子二代の天皇の中継ぎ
のような役割だが、ことさらそれを強調するように
記録が残されている。

文武天皇が即位してから、不比等はその本性を現し
始める。
直系による継承は天皇家に限らずとしたのか、藤原姓を
鎌足直系の不比等自身のみが継ぎ旧・中臣氏(意美麻呂
など、不比等の従兄弟達が勝手に藤原姓を名乗っていた)
を、再び旧姓・中臣に戻すよう、おそらくは文武天皇に
直訴したのだろう。文武天皇の詔により、不比等ただ
一人が藤原氏の祖となったのである。
不比等40歳の8月のことである。

こうなると、もう誰も不比等の猛進をとめることは
できない。当時の官僚・官吏達の目に、不比等は
どのように映っていたのだろうか、記録は何も残って
いないが、嫉妬渦巻く宮廷で、敵もかなり多かったに
違いない。

不比等の歴史上記録が残っている最初の大仕事は、
大宝律令の編纂である。実質不比等が指揮をとって
いたと思うが、表向きリーダーは刑部皇子となっている。
天武朝では優遇されなかった者を多く登用し、適材適所
うまく配し、自分は決して表面に出過ぎることなく動いて
いたのである。

そして701年に大宝律令は完成し、702年に発布され、
初めて日本という国家が形を成した。

(C) 2009 藤原不比等の歴史|藤原不比等の人物像