不比等の野望




不比等の野望がさらに大きく膨らんだのは、多分
文武天皇と娘の宮子との間に長子が誕生したころ
だろう。首皇子(おびと)、後の聖武天皇である。

直系による皇位継承が覆されない限り、このまま
いけば不比等の孫が皇位の就くことで、天皇家の
外戚という立場となるわけだ。

同時に、采女として後宮で発言権のあった橘三千代
(そのころには不比等の妻となっていた)との間に
女子が誕生し、どこまで本気だったかは定かではないが、
この娘と首皇子との婚姻も考えただろう。
三千代との間に生まれた娘は安宿媛と名付けられる。
後の光明皇后(聖武天皇妃)である。

しかし不比等は出世欲をむき出しにするような愚かな
ことはしなかった。自分の上につねにより上位の官僚
を配するように深謀をめぐらせたのではないかは推察する。
不比等は最後まで官僚最高位の左大臣になることを拒み
食封(じきふ)5千戸も給わるも辞退し、結果半分以下の
二千戸のみなんとか説得されて受け取ったという。

彼の目的はお金や地位ではなく、実権だったのである。
彼の目的、すなわち日本という立法国家の確立であろう。

実際、権謀術策だけの人ではなく、多くの仕事をした。
律令編纂もそうだが、遣唐使もその一つである。

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